JSME関東支部シニア会からのお知らせ

シニアの持つ経験、技術、知恵の継承

シニア会たより 第31号(1/2)

鉄道模型と私(1)

浅川基男

【カテゴリー:趣味】

 2016年,蒸気車の雛形(模型)を調査しに佐賀県まで出向いた.嘉永六年(1853年),エフィム・プチャーチン率いる旗艦が長崎に入港,出島を管理し富国強兵に力を注いでいた鍋島直正とその藩士が見聞に行った.ロシア士官が蒸気車雛形に熱湯を入れアルコール器に火を点ずるとボイラーから沸騰音が鳴り響き煙筒から湯気が発生し,たちまちに軌間130 mmのレール上を軽快に走り回るではないか!これに感動した直正は,エンジニア藩士久留米藩からスカウトした機械発明家の田中久重儀右衛門らを動員して,2年後に国産初の蒸気車雛形を試走させた(図1).彼らも熱中して取り組んだことであろう.この蒸気車は鋼と真鍮で作られ,2気筒のシリンダーを持ち,ギアチェンジ機構も備えていた.蒸気圧力が弱かったので,久重らはギアー等で減速して回転力を引き出す独自の工夫も加えた(図中矢印).この蒸気車雛形製造を通じて,銅合金の鋳込み技術,板材・棒線材・管材などの成形・引抜き・鍛造・せん断・接合などの塑性加工技術,および歯車などを切削する機械加工技術を駆使して部品を製造したに違いない.古くから砂鉄・溶解・熱間加工・熱処理による日本刀・鉄砲製造に代表される金属加工技術から,幕末のものづくり技術のレベルとして当然の進展であろう.また模型と言わず雛形とは実にかわいらしい表現である.この調査は大変楽しい出張となった.

精煉方内で蒸気車雛型試運転
蒸気車雛型を前にして楽しそうな筆者
減速して回転力を引き出す独自の工夫

図1 鍋島藩が力を注いだ蒸気車雛型模型(公益財団法人鍋島報效会徴古館所蔵

 さて,私は東京・尾久駅の近くで生まれ,蒸気機関車が走る駅や操車場で自由に遊んで過ごした(図2).蒸気機関車C62の重連が通過するときの汽笛や蒸気音で,沿線にある私の小学校の授業も中断するほどであった.また,山手線を走る白い帯をつけた連合軍専用2等車(図3)は,子供ながらも“かっこよい”と思った.私が小学校2年の1951年4月桜木町事件が起きた.架線のワイヤーが断線し車体に接触,木造主体の先頭車両モハ63が激しい炎に包まれ全焼,2両目のサハ78も延焼し最終的に死者106人・重軽者92人を出す大惨事となった(図4).子供心にも強い刺激を受け,母にせがんで朝刊を読んでもらった記憶がある.図5のクモハ73は桜木町事件後に改良した電車で,前面にある運転席の大きな3枚窓が“かっこよい”.友達がモハ72シリーズのOゲージ(軌間32mm)電車を持っていたので,毎日のように運転させてもらった.

図2 尾久駅のC57
図3 山手線の連合軍専用2等車
図4 桜木町事件のモハ63系電車
図5 改良型のクモハ73

 小学校4年のとき,家に帰ると座敷に0ゲージの3両編成の湘南電車の模型(図6)があるではないか! 近くの鉄工所を経営する鉄道模型愛好家が,私の模型好きを聞いて自分が製作した車両を分けてくれたらしい.これは一生忘れられない.万世橋にあった交通博物館も何回となく通った.1階中央には9850型の実物蒸気機関車のカットモデルあり,その隣にはHOゲージ(軌間16.5mm)の100m2ほどの大きなレイアウトに,あこがれの蒸気機関車電気機関車,電車の編成が縦横無尽に走行していた(図7).図8は小学校6年のとき,お年玉などのお小遣いを貯めて,交通博物館売店で買ったカツミ製Oゲージ鉄道模型自由形EB55である.帰りには須田町にあるカワイモデルに寄るのがお決まりのコースであった.

図6 同型のOゲージ80系湘南電車
図8 初めて買った同型のカツミ製EB55

 そのころは「模型とラジオ」が愛読書であった.型紙をベースに主としてOゲージぺーパー模型や,実体配線図をもとに真空管トランジスターによるラジオ製作など興味満点の記事が掲載されていた.秋葉原ラジオストアーには何回通ったかわからない.
 HOゲージのC62(鉄道模型社製)を友人から譲りうけた.その静かな走りやモーターと油の香りがたまらなかった.そして山崎喜陽氏発行の「鉄道模型趣味」と「銀座の天賞堂」が大人の香りのするHOゲージへの案内役となった.高校に入学してから鉄道模型同好会に入り,仲間と尾久や品川車両基地を歩き回った(図9).スハ43系の10両編成のペーパーによる客車作りに専念し,会員らの模型を寄せ集めて文化祭での運転に興じた(図10).ただし,側板に段差を全く廃したナハ10系(図11)は,平坦部が多すぎてペーパーによる模型はごまかしが利かず,自作は難しかった.ナハ10系は“もはや戦後ではない”の幕開けであり,その後の客車・電車のスタイルの主流となった.
 高校担任から「これからは電気・通信系の時代」とアドヴァイスされたが,鉄道車両の駆動系や台車を設計したいとの希望が捨てがたく,1962年に早大理工の機械工学科に入学した.鉄道技術に関連する製図・材力・熱力・流力や材料関連科目は一生懸命学んだ.大学3年のとき,南砂町にあった汽車会社・東京工場のアルバイトに応募,0系新幹線の図面作製の補助業務をした(図12).課長さんらとの雑談から,「主要図面はほとんど国鉄の車両設計事務所から送付され,民間会社はその図面に基づいて忠実に製造する」との役割分担があることを知った.そこで,就職先は国鉄一本に絞ることにした.大学院2年時の国鉄入社試験は忘れもしない東京駅丸の内北口にある本社であった.現在はその前に日本の“鉄道の父”である井上勝の立像がある.鉄道模型趣味が高じて大学は機械工学科を選択し,就職先は国鉄1本に絞ることになったのである.面接官に「志望先は工作局車両設計事務所,そこで鉄道車両の設計をしたい」との希望を述べた.しかし後日不合格通知が届いた! 自分のノー天気さを思い知った.

 シニア会たより 第31号(2/2)に続く

図9 品川車両基地訪問
図10 自製客車群(左)とレイアウト(右)
図11 新客車ナハ10
図12 汽車会社でのアルバイト

編集委員から
 浅川さんから頂いた原稿が大部だったので第31号は今月(2024年2月)と来月(3月)の2部構成にして掲載いたします。これからも投稿内容によってどのように掲載するかを投稿されたメンバーと編集委員で相談をしながら対応していきますので、シニア会のメンバーの方々の投稿をお待ちしております。